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源義清 (矢田判官代) : ウィキペディア日本語版 | 源義清 (矢田判官代)[みなもと の よしきよ]
源 義清(みなもと の よしきよ)は、平安時代末期の武将。足利氏の祖である源(足利)義康の庶長子。同母弟に義長(義良)、異母弟に義兼・義房がある。通称を矢田判官代(やたのはんがんだい)といい、矢田義清、足利義清とも記される。仁木氏、細川氏、戸賀崎氏の祖。 == 生涯 == 本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟義兼が継ぎ、義清は庶長子であるため伯父であり岳父でもある源(新田)義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。 京において上西門院に仕え、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政の敗死後は源(木曽)義仲の麾下に走った。 寿永2年(1183年)、義仲軍の上洛の際に源行家や源(多田)行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して京の西方から平氏を追いつめ、7月に義仲と共に入京した。10月、都を落ちて西海にあった平氏を追討するべく、義仲の代官(総大将)として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。閏10月1日、備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、大手(正面)の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍に大敗を喫し、海野幸広や同母弟義長らとともに矢の雨を浴びせられて壮絶な戦死を遂げた(水島の戦い)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源義清 (矢田判官代)」の詳細全文を読む
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